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音楽と死

今日もこのブログへ来てくださりありがとうございます。

せっかく読んでくださる方にとって、心の奥深くに届くブログでありたいと思います。

 

実父がこの世からあの世へ還ろうとしています。実母も10年以上前に還っていきました。

誰もがかつて、可愛くて清らかな赤ちゃんの時代があって、その後の数十年間様々な経験をして、泣いて笑って喜んで怒って嘆いて、、、やがてしわくちゃよぼよぼのじいさまばあさまになって、そして再びふるさとへ戻っていく。

当たり前のことなのに、すごいことだなと思います。

私は「死」に対してネガティブな感覚を持っていません。

死ぬということは、この世からいなくなるだけのことで、存在が消えたりしないと思うから。

父に対しても、

「長い間お疲れさまでした。頑張ったね。育ててくれてありがとう。そろそろ本当のおうちに帰って休憩していいんだって。」

という気持ちでいます。

父の歩みは波瀾万丈な部類に入るケースで、一緒に暮らしている家族にとっても父の胸中は謎でした。

経済的に苦しい状況下でも、子供の教育費を惜しまず、私には心置きなくピアノを練習できるようにと防音室を作ってくれたりして、親とは本当にありがたいものだと思います。

 

私には「死」というものを忌み嫌う感覚は、ほぼありません。

思い返せば、少女の頃は死が怖かったはずでした。

 

小学1年か2年の頃、テレビで「魔法使いサリーちゃん」を観ていた時、ストーリーに「死」が出てきて、突然電撃が走りました。

「人は死ぬことがあるのか?私のお母さんも死ぬのか?まずいな、いやだな、大変だ、大事件だ」

慌てて台所にいる母のところへすっ飛んでいき、母に尋ねました。

「ね、ママは私が6年生くらいになったら死んじゃうの?」と。

母は驚きながら、こう答えました「ママ、そんな早くに死んじゃうの?それは困るな。」

私は少し安心しました。「どうやらそんなに早く母は死なないらしい。ひとまずよかった」と。

 

私はこれ以降小3くらいまで、身近に起こっていない「死」に怯えて、少女なりに悩んだものでした。

母が死ぬときに私も布団をならべて二人で「せーの!」で一緒に死にたいな。とか

母が胃炎になると「胃癌で死んじゃうかも」という妄想に陥り、家族に隠れてメソメソ泣いたり。

 

 

少し大きくなった大学生時代に「死」のこともう一度考える機会がやってきました。

音大の西洋音楽史の講義で講師がモーツァルトの手紙を題材にしていて、

「モーツァルトはこの手紙に既に死へのあこがれを書いている」と言った時です。

私にはインパクトの大きい言葉でした。

「死へのあこがれ? あこがれる?死に?・・・ある!わかる!」と妙に共感したのでした。

 

今日は「死」のことばかり書いてすみません。

ここで音楽の登場です。

なぜ「死」が「あこがれ」なのか。普通、逆ではないでしょうか。

それはこういうからくりです。

音楽の出身地はあの世

死はあの世

同郷の存在である、音楽と死。

だから両方とも「あこがれ」に該当するのです。

話、飛びすぎているでしょうか。

 

私は音楽に感動するとき、「この世のものではない美しさ」だと感じています。

それは手に取ることができないし、耳で聴いているのではないし、目で見ているものではない。

確かに心の中にあって、なんだかとても懐かしいような、名付け得ないもの。

遠くて近い、物理的ではない、何か。

 

音楽は別の世界からやってくる、別の何かがあるなといつも感じています。

 

 死んだことはないし、死んだらどうなるのかなんて確証はないけれど、きっときれいな懐かしいものを感じるのだろうと信じています。

父はもうすぐ還っていくあの世って、きっと私が音楽で感じているような美しいところなんだろうなと信じています。

会えなくなるけれど、私もそのうち、この世の用事が終わったら行くし。

 

そんなことを感じる今日この頃です。

 

今日は明るいとも暗いとも言えないようなお話でした。

懲りずにまたここへ遊びに来てください。

 

立川市 ピアノ教室ソラージュ