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「自分」をアピールしようとすること

二週間ぶりの更新となりました。

このブログを見に来てくださって、今日も本当にありがとうございます。

少し前のこと、私の小学校時代の担任の先生が時々このブログを読んでくださっているという情報を得ました。

A先生。大好きな先生でした!心がじんわりと温まりました。

私事ですが、ここでA先生にお礼を言います!

「ありがとうございます。またときどきこのブログへ遊びにいらしてください!」

 

今日のテーマは、「自己表現」ということです。

「私」という存在について。

私は二十歳くらいから「私を表現する」ということに対しての疑問が湧いていました。

そんなことに疑問なんて持たないでも済む人もいると思いますが、私には何故か抵抗がありました。

子供の頃、素直に音楽に心惹かれて、無心にピアノを弾いていた頃。

その時はそれでよかったのです。

今聴いても、小6の時に無心で弾いたシューベルトの即興曲は絶品だと感じます。

無心の成せる業です。

 

でも次第に「音楽を表現する」が「自分を表現する」に変化してゆき、音楽本来の楽しさを見失って、迷走していたのです。

 

「自分」というのは何でしょうか。

これはとても深いテーマだと思います。

「私」に固執すると道を見失う。

これは音楽に限ったことではないと思います。

 

歳を重ねた今、私は何をするにしても、自分の行動の動機に「私の価値を確認したい」という要素が入らないように気を付けています。

 

「私の価値」なんてものは、誰もが、堂々たる自信を持っていてよいのです。

私には絶大な価値がある。

だって私は「命」なんだから。

他人の評価は全然関係ないと言っても過言ではない!

 

私たちの誰もが、「全体」という大いなる命の営みを生きています。

社会の中で目立つポジションにある個人も、

誰にも気づかないような片隅でそっと生きている個人も、

障がいをもって生まれて他人に世話にならなければ生きられない人も、

宇宙の創造の中では必要な個人だと思います。

この宇宙は、すべての個人たちの織りなす壮大なタペストリーです。

もし「私」が、タペストリーの隅っこの、誰も注目しないような真っ黒な部分であっても、その黒がなければタペストリーは成り立たないのです。タペストリーの真ん中の模様が生き生きと輝くためには、隅っこの黒が必要なのです。どんなところでどんな風な役割を生きたとしても、全ての存在に確固たる絶大な価値がある。

 

この事を腹の底に落とし込んだとき、私は「自己表現」という焦燥から逃れることができました。

 

ちょっと深刻っぽい話をしてしまったので、なるべく気楽になる話題で終わりたいです!

 

この2,3ヶ月練習してやっと演奏動画をアップできました。

動物の「トラ」と、鳥の「キウイ」。

なんか面白そうに聞こえませんか。

 

真剣に弾いてますが、本当はもっと楽しんで冗談みたいに弾きたい。

でもそうなるまでにはまだまだ練習が足りない。

もっと熟さないとゆとりが出ません。

新しく出逢った曲と仲良くなるには、付き合う時間が必要ですね。人間関係と同じです。

でも、そこそこの出来映えになったので公開してみました。

 

1曲目は、田中カレン作曲「光のこどもたち」という曲集より「トラ」

 

面白い曲です。トラのギラギラした力強い魅力は、大地の野性的なエネルギーそのものという気がします。

そんなスケールの大きい表現を目指しました。同時に、この曲はユーモラスです!

パワフルでユーモラス!

男の子の生徒さんが弾きたいと言ってくれるかなと期待しつつ!

 

2曲目は、田中カレン作曲「光のこどもたち」より「キウイ」

田中カレンさんは絶滅危惧種の動物たちを題材にした美しい曲をいくつも作っておられます。

ニュージーランドに生息する鳥「キウイ」もその一つです。

この曲は明るい!何か起こってもこんな明るくて楽しい気分で過ごしたい、そんな曲です。

西洋文明は世界の中心になっているけれど、地球上の歴史には西洋文明以外にも素晴らしい文明が存在していました。

例えばインディアンの文化。凄惨な過去とともに抹消されてしまった文化の一つです。

日本はどうでしょうね。今となっては分からなくなったことも多いですね。江戸時代をタイムマシンで訪ねてみたいです。

今は影を潜めてしまった文明や文化であっても、我々のDNAの中には記憶があり、様々な形で表現されるのだと思います。

そんなことを思いながら、現代の作曲家たちの曲を弾いている今日この頃です。

 

またこのブログへ遊びに来てくださいね。

 

立川市 ピアノ教室ソラージュ