今日もこのブログを読みにきてくださり、ありがとうございます。
先日、気になったことがあって、その考えがまとまったので、ブログに書いてみようと思います。
生徒さんの一人で、今年は何度も体調を崩してしまった方がいました。
「あまりにも仕事が忙しくて心も体も限界になる。ピアノの練習どころではない」
という状況でした。
その方はとてもまじめで優秀な生徒さんで、ピアノを長時間集中して練習するので、こちらの想像を超えるところまで上達するのです。そしてこれはきっと、ピアノだけでなく仕事も同じように、オーダーされた以上のことをやってのけるのだろうと推察するのです。
「他者の期待に応えるために骨身を惜しまない人」
「優しくて思いやりがあり、気が利いて、有能な人」
こういう方、何人か身近なところにいます。
尊敬できるし、思いやりがあるから安心するし、素晴らしい人だと思いますが、ちょっと心配もします。
こういう人に世の中の仕事って舞い込んでくるような気がするのです。
「物を頼むなら忙しい人に頼め」
ってよく言いますものね。そういう人の方が効率がいいですものね。
そこで、その優秀な生徒さんに言いました。
「来年はわがままについての研究をしよう。サボリンボになる練習をしよう」
と。
彼女に意図がきちんと伝わっていないかもしれないと思ったので、その後これについて考えてしまいました。
こういうことではないかと思うのです。
「自分」というキャラクターを少し離れたところから見たらいいんじゃないかと思うのです。
この世の出現している「自分」は、なにがしかの「キャラクター」であって、
自分自身とは密着していないと考えたらどうか、と。
だから、そのキャラの持っている特質とか使命とかに対して、敬意を払わなくてはならないと思うのです。
そのキャラクターを生かすことができるのは、世界中で「私」しかいないので、その責任があるのです。
だから、他者を優先するより前に、自分の受け持ちの「キャラ」を生かすことを考える。
上司からのノルマとか、家族への責任とか、そういう事よりも、まず優先して自分の状態を考える。
日本人的ではないかもしれないけれど、図々しくなることを練習する。
「他者からの期待に応える生き方」に逆らう。
最大にして最強の他者は「親」かなと思います。
生徒さんもそうだし、我が子もそうだけど、みんな本当に「親」を好きだし、感謝していると思うのです。
何とかして、親を喜ばせようとしているのがわかります。
しかも、それを多分自覚していないと思うのです。だから厄介だなと思います。
私自身もかつてそうだったし、友人にも見受けられます。
これは私の思いなのか?それとも親の願いなのか??
よくわからないまま進んでいってしまうのです。
私は20代後半の頃、尊敬する女性にこう質問してみました。
「私がピアノを弾くこととか、私がコンサートをすることが、私自身の願いなのか、それとも母親の願いなのか、よくわからなくなることがある。母を喜ばせたいからコンサートを企画しているんじゃないかと感じることがあり、それでいいのかって疑問に思う」と。
相手の回答はこうでした。
「いいじゃない、お母さんのためでも。これまでずっと応援してくれたお母さんだもの、喜ばせてあげなさいよ」と。
この答えにはちょっと驚き、本心では納得しなかったのですが、答えは保留にしたまま音楽活動を続けました。
今思うことは、若い時から「自分」というキャラに対して研究熱心であるべきということです。
この「キャラ」は何をやりたがっているのか。
何に対して強く反応を起こすのか。
何をしているときに生命力が高まるのか。
、、、みたいなことをよく観察する。
そしてキャラの特質に沿って、努力する方向性を定める。
という意味で、100%の自分本位であることを推奨します。
自分のキャラに対して責任を持つことは、すごく勇気がいるし、努力も必要で、険しい坂道なのだと思います。
むしろ、他者の望みとか、世間体とかに自分を譲り渡してしまった方が楽なのではないかとも言えます。
私は自分の子供に、私を喜ばせる生き方をさせないように気をつけています。
子供は子供自身のキャラクターに合う進路を見つけてほしいのです。
自分で言うのもなんですが、私の子供たちは二人とも私のことをやたらに好きです。
やたらに。
だから気をつけないと、私を優先してしまいそうなので、
むしろ突き放し気味の母親をやっている気がします。
今後、女性の在り方も、どんどん変わってゆくのだろうと思います。
同時に社会構造も変わるのだろうと思います。
自分の道を見つけるのは大変だけれど、がんばる価値があるなと思います。
老いも若きも、みな同じだと思います。
また、長くなってしまいました。今日はこんなところで。。
読んでくださり、ありがとうございました。
立川市ピアノ教室ソラージュ